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震災後の宮城県の様子_東北大学からのメール(3月24日)

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2011年03月26日(Sat) 18:12

震災で大きな被害を受け、今も苦闘されている宮城県の様子を、
先天代謝異常の専門医である東北大学医学部遺伝学教室の
松原教授が知らせてくださいました。


松原先生の許可をいただきましたので、紹介させていただきます。

被災地にはいない私たちには、東北地方を中心とした被災地への、
息の長い支援が求められています。

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件名:東北関東大震災のご報告と御礼 日付2011年3月24日17:53

 先日はお見舞いのメールをいただき、ありがとうございました。

 これまでお返事する余裕がありませんでした。ご心配かけてすみません。
ようやく少し落ち着いてきましたので、改めて御礼申し上げるとともに、
これまでの様子をお知らせしたいと思います。

 まず、私の家族や、東北大学医学部の私の教室(遺伝病学分野/遺伝科)の人で
犠牲になった人はいませんでした。残念ながら、知人や、医学部関連の人で津波に
呑み込まれた人や家を失った方はおられます。私の教室の若手医師は、当日、
石巻市近くの関連病院の診療応援に出かけていましたが、地震直後、山側のルートを
通って仙台に戻ったため、危うく津波の難を逃れました。関連の大学小児科のほうでも、
志津川病院の診療応援中に津波に遭遇し、屋上へ逃げて生還した医師がいます。

 仙台市中心部や東北大学は海から距離があり、標高も高いため、津波による
直接の被害はありませんでした。東北大学医学部では、建物によって損害の程度が
大きく異なりました。私たちの研究室のはいっている古い建物(昭和40年代のもの)は
ひどく揺れ、わたしもこれでもう最後かと覚悟したほどです。32年前の宮城県沖地震も
経験していますが、それとは比べ物になりませんでした。ちょうど建物の外にいた人は、
ビルが振り子のように揺れるのを見て、倒壊するのではないかと遠くへ逃げたそうです。
地震直後は館内に埃が立ち込め、天井の破損した水道管から水が落ちてきました。
危険なため立ち入り禁止となり、一昨日(3/22)ようやく入館が許可されました。
怖々入室して片付けを始めていますが、建物はあちこち損傷があり、本当に安全
かどうか疑問です。上層階の医局では元の場所に戻ることを拒んでいるところもある
ようです。

 私たちの教室は低層階(3階)にあること、そして以前から地震対策をしていたこと
もあり機器の損傷は軽微なようです。ただ、フリーザーの貴重な研究試料はすべて
溶けてしまいました。外来診療棟にある遺伝科外来の部屋は、天井と壁の一部が
崩れました。ちょうど診療中ではなかったので人的被害はありませんでしたが、
いつも医師が座る椅子の上に大きなコンクリートの塊が落ちていてぞっとしました。
今は崩れた天井の隙間から青空が見えています。

 一方、最新の免震建築である新病棟は被害はほとんどありませんでした。
棚の書類が落ちることすらなく、中にいた人たちはこんなに大きな地震だと思って
いなかったようです。非常電源が作動し、水も井戸水なので大きな混乱はありません
でした。建築技術の進歩はすごいものだと感動しました。この新病棟がフルに機能
したおかげでとても助かりました。震災後、私たちは小児科病棟の学生実習室に
避難して居を構えていました。東北大学病院では、早速、災害対策本部が設置され、
私たち遺伝科も小児科と一緒に被災地の医療の後方支援という形で動いていました。
自衛隊ヘリで患者が移送され、透析患者などはさらに北海道・東京などの遠隔地に
移送する中継基地となりました。若手医師たちは、よりひどい被災地の関連病院へ
支援に行っていますが、自身の食糧や移動手段、ガソリンの確保が困難で思うように
動けないのが実情です。数千の遺体が海岸地域にあるため、むしろ検死の医師の
需要が大きい状況です。

 仙台市中心部の家やマンションの被害は少なかったのですが、避難所に移った方も
大勢いました。教室の人でもしばらく医学部内の避難所で過ごしていた人がいます。
この避難所は、今は福島から避難してきた軽度の放射線被ばく者の宿泊施設と
なっています。震災当日、私は徒歩で自宅(仙台市内の山側)に向かいました。
いつもは車で15分の距離ですが、途中の橋が通行不能、旅館の倒壊、青葉城址の
石垣崩壊などで3時間かかって戻りました。いまでも不通箇所はそのままです。
帰途、街のあちこちで都市ガスが噴出しており、危険な状態でした。数ヶ月前に
大改修をした自宅の壁には少し亀裂が入っていましたが、住める状態で安心しました。
家のすぐ前の道路には断層ができ、そこにはまり込んだ車が動けなくなっており、
道路下から都市ガスが噴きだしていました。夜は、全市真っ暗な中で、港の石油施設の
火事が遠くに赤く見え不気味な光景でした。

 仙台は、空港と港が津波で壊滅、陸路が寸断され、東北自動車道は緊急車両以外
通行禁止となったため物資が入ってこなくなり、仙台市内でも水・食糧不足が深刻
となりました。私たちも連日空腹を抱えながら病院に詰めていました。ほとんどの店が
閉店したままで、開いているスーパーやコンビニも、たばこ・酒・雑誌以外は空っぽ
でした。自宅では電気が震災数日後に戻りましたが、水道・ガスが途絶えたままで、
いまでも給水車頼みです。

 介護保険サービスが止まったため1週間あまりヘルパー派遣や配食がない
ところもあり、独居高齢者にとっては死活問題となりました。わたしは独居の父親の
ところへ、同じ市内ですが、徒歩とヒッチハイクでたどり着きました。行ってみても、
水と食料の確保が困難でとても困りました。

 震災後1週間を過ぎたころから、ようやく様々な物資が市内に届きはじめ、お金と
時間をかければ食料などの物資が入手可能となりました。しかし、いまでもガソリンの
入手が困難で、深刻です。給油所には徹夜で数kmの列ができていますが、次の日に
ガソリンが売られるかどうかもわからない状況です。公共交通機関は、JRは不通、
地下鉄も部分開通、バスも一部路線だけという状況です。LPガスが出回ってきたの
でタクシーは走るようになりました。

 津波の被災地に比べれば些細なことですが、日常生活の不便な状況は続いています。
いまでも多くの地域で風呂には入れず、連休中に開いたスーパー銭湯には約2千人
並んだようです。スポーツクラブでシャワーを一般開放したところもありますが、石鹸
とシャンプー持参で10分1000円という値段でした。

 今回、津波被災地の医療は、現地のドクターと全国から駆けつけてくれた災害医療
チーム(とくに日赤)の活躍が大きかったようです。津波で一挙に命が奪われ決着が
ついてしまったケースが多く、現時点ではむしろ一般医療の需要が増えてきました。
もともと東北地区は医師不足が深刻ですので、それがより顕著になってきた感じです。
全国から駆けつけた医療支援チームが引き揚げたあと、医療の担い手がどれほど
残るかこれからの大きな課題です。

 復興にはしばらく時間がかかりそうですが、皆で力を合わせて頑張っています。
東北地方のひとは、自己主張が強くなくじっと耐え忍ぶ方が多いです。声高に色々な
ことを要求することは少ないのですが、今後さまざまな機会や手段を通じて、
皆さんからのご支援をいただければと思います。

 以上、散漫な文章になりましたが、現状報告をして御礼に代えさせて頂きます。

松原洋一
東北大学大学院医学系研究科遺伝病学分野
〒980-8574仙台市青葉区星陵町1-1


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